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ディスカス発見の歴史  ハイコ・ブレハー博士の記事から抜粋

ここでは、ハイコならではの、ディスカスの歴史こんなことあったんだ?!的な裏側も含めてご紹介します。ちょっと視点を変えての歴史を見てもおもしろいです。

ディスカス発見の歴史

1817年〜1835年   オーストラリア人のヨハンナッテル(Johann Natterer)がブラジルの動植物を採集し、初めてディスカスを発見した

1840年                 ドイツ人のヨハン・J・ヘッケル(Johann Jacob Heckel)がヘッケルディスカス(Symphysodon discus)の論文を発表

1878年         フランスのM.ヨベルト(M. Jobert)が2種(テフェから2つの標本、サンタレンから1つの標本)を持ち帰る

1903年                  ジャック・ペレグリン(Pellegrin)がそれらをSymphysodon discusの亜種として、var. aequifasciataと名付ける。

1920年〜         インディアン達が採集した少数のディスカスがドイツのハンブルグ水族館によって輸入されるが趣味としては確立しない。    

・・・とここまでが、ハイコの語るディスカスの歴史と一般的なディスカスの歴史が一致している点です。ココからがちょっと違います。



本当は別の真実が・・・?!ハイコが語る亜種の発見について

ディスカスについての、一般的に書かれている歴史は、1960年頃、アクセルロッド博士が亜種のブラウンディスカス(Symphysodon aequifasciata axelrodi)を発見し、
彼の名前がつけられましたが、ハイコの語るディスカスの亜種発見の歴史とはちょっと違うようです。


1948年ハイコ・ブレハーの母アマンダ・ブレハがフランクフルト動植物園に「生きている」ディスカスを初めて輸入するのを成功させ、当時7歳だったブレハが
ディスカスの世話をしたという。だがしかし、残念なことに、アクセルロッド博士により後で公表された。
でも彼は、本当は1枚のディスカスを発見することも採集することもできなかったのである。
彼(S. aequifasciatus axelrodi)の名をとって名づけられた亜種は、故輸出業者ハンスウィリーシュワルツの漁師によって集められたディスカスだったのである。
また彼は、彼の名が付いているカーディナルテトラも同様に1匹も採集できなかった。彼は、1956年の春にニュージャージーのペットショップでそれらを購入したのである。
そして、「その発見」はフレッド・コチュが1952年9月にドイツ人の湖沼学者H.Sioli博士によって既に発見されたカーディナルテトラをアクセルロッド博士より1年も前に輸入
して作られたものなのである。
フレッド・コチュは、1933年に設立されたParamount Aquariumというニューヨークの会社を所有し、1940年代後期から1950年代はじめにかけて、リオトカンティンスの
べレム西部やタバディンガ北部でインディアン達にディスカスを採集させた。しかしまだ、ディスカスが知られ始めたきっかけにすぎなかった。
本当のディスカス界の飛躍的発展は、1955年以降、エドワード・シュミット・ホッケ博士によってもたらされたのである。
科学者は最近まで、L.Pシュルツ博士によってなされたシムフィソドンディスクス属の科学的な改訂に反論していたが、アクセルロッドがそれを後援し、1960年に発表された。
亜種の中の分割は、わずかな人々を気分をよくさせ、"axelrodi”やあるいは"haraldi”の様な不変のものに変えてしまった。もし、分割があるとするならば、たった4種類ではなく、
何百以上になるにちがいない。
私は私の亡き母、あるいは私自身のただ称賛だけのために人生のすべてをかけているのではないことを言及したい。だが、私は真実を言わなければいけないと感じている。
そしてまた、ゲリー(Géry)とブレハーによって分類学を改定した私の本「Bleher’s Discus volume I」を出版して以後、1840年にBleher,Stölting,SalyzburgerとMeyerにより修正された、Symphysodon Heckelの種類に関して淡水の国際的な魚類学雑誌12巻を2004年ちょっと後に出版してきたから、2007年にはディスカス種の系等が皆に良く理解されるようになった
に違いないのである。

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