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新種ディスカスを求めて ※ハイコ・ブレハーの記事より抜粋 訳:池田 ひかり

これは、ハイコ・ブレハーのヤムンダ湖にて新種ディスカスを発見した時の冒険記である。彼の世界を実感できるに違いない。

カボクロのジョー

ジョーは本当の「カボクロ」である。彼は家族と、ヤムンダ川(ヤムンダ湖の北側)沿いの水辺に数年に渡り暮らしている。
彼のコーヒー農園(牧畜農場)は、ほとんど自然のままの美しい広大な川の前の最後の白人の植民地である。

  カボクロとは・・・
   ・インディアンとヨーロッパ人の混血児で肌が黒い。
   ・起源はやせて乾いたブラジルの北東部地域
   ・未開のアマゾンの密林に1世紀以上前から住みはじめ、子孫が繁栄して今の姿となった。
  
※以下、当サイト管理人説明
   カボクロについての言葉の由来は、いろいろあり、ヨーロッパ人が植民地化していく際に、インディアンが奴隷にされて社会に取り込まれている中で、白人との混血も生まれ、
   その意味をもつようにもなった。もともとはトゥピ語の"caá-bóc"(森から出てきた者)で、軽蔑の意味を持つ。
   上位の者から下位の者を指す時に使用する。インディアンがブラジル社会へ統合されることによって、うまれた「カボクロ」は、飢えと貧困で苦しむこととなり、インディアンで
   狩りをして暮らしている方がはるかに豊かな生活を送れる。よって、あまりイメージはよくない表現の言葉である。 ジョーも例外ではない、カボクロである。


最初のカボクロ達は、天然ゴムの元である、パラゴムの木(the Hevea brasilienis trees)乳状の樹液を集めるため、ブラジルの奥地までやってきた。
ゴムブームは、東南アジアからより易いものが出てくる1913年までしか続かず、そのあとは、キャッサバ・バナナ・マンゴー等のいくつかの農業を始めるものの、
実は結ばなかった。
理由として、巨大な熱帯雨林は、大部分は純粋な砂の上に出来上がっており、この肥沃でない土地は、たった1回か多くとも、最大2回までしかちゃんとした
収穫ができない。一度それが終わると、新しい場所へ移動せねばならない。彼らはまた土地を耕す為に、熱帯多雨林の一画を焼き尽くさねばならない。
しかも彼らは貧しく、チェーンソーあるいは、マッチのような最新の効率的な用具も持っていないのである。
こういうことが、十年間の間、何度も何度も繰り返し行われたのである。

1960年代〜1980年代にかけて、増加する都市化、機能していない水力発電所、金とダイヤモンドの発掘のため、世界最大の熱帯多雨林の1/3は伐採され、
消えて行った。1980年代になって、酪農が一番儲かるとわかり、牛を育てたり、牧場の所有者の為に働き始めた。アマゾンではなぜか成功しなかったが、
ブラジル南部や中心地域で大成功を収め、肉の需要はコンスタンスに増え続け、結果、アマゾンの大部分は草原になり、オウム・コンゴウインコ・猿・蛇や
トカゲ・カピパラや亀、ジャガーやピューマ等、何百もの未知の虫や植物が消え、コブウシに変わった。破壊は、水の生息地にも相当な影響を及ぼした。

幸運にも、まだ広大な熱帯多雨林地域が無傷のまま残っている。どれくらい残っているかはわからないが、私はそこから新しい何かを発見し、保護するのを
目的に何十年も特にそのような未開の密林へ探しに行っているのである。

今回の旅は、ヤムンダ中流・上流に住まう者の知恵を借りるためだった。我々、私の友人で優秀なカメラマンであるアクセル・メクセス(Axel Mexes)とカボクロ
のジョーと私が旅のメンバーだった。
ジョーはヤムンダ河を登る、1週間の長旅の為に、”voadeira”(アルミニウムボート)の準備を終えようとしていた。
 

早朝の出発

ジョーが、400リットルの燃料を充填した私達のボートに荷物を一杯に詰め込んだ後、私達は早朝のもやの中、出発した。
ジョーの妻、ドナ・マリア(Donna Maria)は出発前にとても甘いコーヒーを出してくれ、マンゴー、パパイヤとカシューフルーツをいくつか包んでくれた。今彼女は、
隣に7人の子供たちと川岸の高い所に立っており、手を振ってる。彼女は、私達の姿が消えると、霧の中で、「神とともに!(Vão com deus)」と叫んでいた。


ロンドンのいつもの霧はこの霧と比べたら何てことはない。早朝のアマゾン川の霧は50cm前方すら見ることができないのだ。
そんな中、どうやって、川の真ん中へボートを進ませることができたのかは私はわからなかった。                 <<次号へ続く>>

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